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Translated by WILLIAM N. PORTER
English Audio:LibriVox
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参議篁
わたの原
八十島かけて
漕ぎ出でぬと
人にはつげよ
あまのつり舟
ひとにはつ
けよあまの
つりふね
わたのはらや
- 11番歌
-
わたの原
八十島かけて
漕ぎ出でぬと
人にはつげよ あまのつり舟
作者:参議篁(802年~853年)
出典:古今和歌集 羇旅
- 現代語訳
- わたしが大海原の島々に向けて船出したと伝えておくれ。漁師の釣り舟よ。
- 解説
- 『古今和歌集』の詞書に「隠岐の国に流されける時に、舟に乗りて出でたつとて、京なる人のもとに遣はしける」とあります。この歌は隠岐に島流しされることになった篁が京の都に残してきた家族に向けて詠んだものです。
- どんな人?
- 参議篁の本名は小野篁で、小野小町の祖父にあたります。彼は遣唐副使として唐に向かう途中、上官から漏水した船と交換するように命じられましたが、これを拒否しました。さらに遣唐使の無能さを批判する漢詩『西道謡』を作ったことで嵯峨上皇の逆鱗に触れ、絶海の島である隠岐に配流され、厳しい生活を送りました。2年後には恩赦を受けて都に戻り、官職に復帰しています。
- 品詞分解と文法
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左の原文の単語をタップ(クリック)すると、品詞・活用・解説がここに表示されます。
- 歌のイメージ
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この画像は、William N. Porter氏が1909年にイギリスで出版した百人一首の英訳本『A Hundred Verses from Old Japan』の挿絵を元にAdobe Firefly(生成AI)で色を付けて、アレンジしたイメージです。
- 小野篁の略年表
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- 802年
- 誕生
- 822年
- 文章生試に及第
- 833年
- 令義解の序文を執筆
- 834年
- 遣唐副使となる
- 838年
- 遣唐使の乗船を拒否し、隠岐国へ流罪となる
- 840年
- 許されて都へ戻る
- 847年
- 参議となる
- 852年
- 従三位に叙される
- 853年
- 死去
- 小野篁の系図
-
初めて中国に渡った篁の祖先
小野氏は、飛鳥時代から平安時代にかけて活躍した一族です。特に飛鳥時代の小野妹子は、聖徳太子が作成した「日出ずる処の天子」で始まる国書を、隋の皇帝に届けた遣隋使の大使として歴史に名を残しています。
渡航拒否した篁
そのような先祖を持つ篁も、遣唐使の副使として中国に渡る予定でした。しかし、危険な航海をするにあたって、不具合のある船をあてがわれたことが理由で乗船を拒否したと言われています。ただし、篁が遣唐使事業を風刺する漢詩「西道謡」を作っていたことを考えると、篁の時代では唐の国力が衰退し、学ぶべきことが少なく、遣唐使事業の意義が薄れていたという側面があったようです。
篁の父・岑守
篁の父・岑守は参議兼大宰大弐を務めた公卿です。漢詩に優れ、天皇の侍読を務めた人物で、その才能は篁に受け継がれたようです。篁は「日本の白楽天」と呼ばれたと言われています。
篁の子孫
篁の子孫には、百人一首の9番目に収められている小野小町や能書家として知られる道風がいます。
- 付録
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- 隠岐で詠んだ歌
- 隠岐に配流されて、厳しい生活を強いられた様子が詠まれています。
原文
思ひきや 鄙の別れに 衰へて
海人の縄たぎ 漁りせむとは 『古今和歌集』小野篁現代語訳
思いも寄らなかったことだ。都と別れて、ひなびた田舎でやつれ果て、漁師の網を引いて、魚を獲ろうとは。
- 梅を詠んだ歌
- 寒い冬の名残りである雪と春の訪れを告げる梅の開花が交じり合う情景は格別な美しさがあり、万葉集の頃から見られる伝統的趣向でした。博学だった小野篁も、この伝統を受け継ぎ、次の歌を残しています。
原文
花の色は 雪にまじりて 見えずとも
香をだに匂え 人の知るべく 『古今和歌集』小野篁現代語訳
梅の花の色が雪に紛れて見えなくても、せめて香りだけでも匂わせておくれ。梅の花の存在を人々が気づくように。
- 篁物語のきっかけになった歌
- 『篁物語』とは、小野篁とその異母妹との切ない悲恋を描いた歌物語です。
次の一首は、愛する妹を亡くした篁が、深い絶望の中で詠んだもの。この歌の持つ切ない世界観は後に『篁物語』として結実しました。ただし、『篁物語』の作者、成立時期はともに不明です。
原文
泣く涙 雨と降らなむ 渡り川
水まさりなば 帰り来るがに 『古今和歌集』小野篁現代語訳
私が泣く涙が雨となって降ってほしい。三途の川が水かさを増して、妹が引き返してくるといいのに。
- 遣唐使船
- 日本から唐へ派遣された遣唐使が乗った船。奈良時代以降は4隻編成が基本で、1隻に120~160人程度が乗り込んだと推定されています。航海は危険を伴い、何度も渡航に失敗することがありました。838年、遣唐副使の小野篁は、遣唐大使・藤原常嗣の船が損傷したため、篁の乗る船と交換することになったことに抗議し、乗船を拒否しました。
- 遣唐副使
- 遣唐使の使節団は基本的に大使(一等官)、副使(二等官)、判官(三等官)、録事(四等官)という構成になっており、参議篁は二等官に相当する副使でした。ちなみに漏水した船と取り替えるように迫った上官は遣唐大使で、藤原常嗣という藤原北家の公卿でした。
- 西道謡
- 篁が遣唐使船の上官に抗議して作った漢詩。この漢詩を作ったことで嵯峨上皇の怒りを買って隠岐に配流されました。
残念ながら「西道謡」は現存していないため、内容は明らかではありません。当時、国力が衰退していた唐から学ぶべきことが少なかったことや遣唐船は遭難のリスクが高く、亡くなる人も多かったため、篁は人的損失を度外視した遣唐使の政策に対して疑問を感じていたのではないかと考えられます。 - 悪無善
- 平安時代の説話集『江談抄』には、嵯峨天皇の御代に「悪無善」という落書が都に出回ったという話が記されています。その意味を解読できる者はいませんでしたが、篁に見せると即座に「悪無くば善かりなまし」(嵯峨天皇がいなければよいでしょう)と読み解きました。あまりにも素早い解釈であったため、篁は落書の犯人ではないかと疑われます。そこで試しに、「子子子子子子子子子子子子」という文字列を読むよう命じられましたが、篁はこれもたやすく読み解きます。その見事な才知によって、篁への疑いは晴れたと伝えられています。
- 子子子子子子子子子子子子
- 「猫の子仔猫、獅子の子仔獅子」と読む言葉遊び。宇治拾遺物語には、嵯峨天皇が発案し、小野篁が解いたと記されています。
- 小野道風と蛙
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遣唐使の任務を拒否するほどの強い反骨精神を持ち、夜は地獄で閻魔大王を助けたという伝説さえある自信家の小野篁。その孫である小野道風は、類まれな才能を持ちながらも、自らの限界に悩み書道をあきらめかけるほど繊細な人物でした。
そんな道風の目を覚まさせたのが、雨の中で柳に飛びつこうと何度も跳ねる「蛙」の姿です。「届くはずがない」と冷ややかに見ていた道風ですが、たまたま吹いた風で柳がしなり、蛙が枝を掴んだ瞬間、「準備なき者に好機は活かせない」と悟ります。この地道な努力を経て、彼はのちに「日本の白楽天」と称された祖父にも劣らぬ「書道の神様」となりました。
この劇的な転機を切り取った姿は、現在も花札の「柳に小野道風」の絵柄として、広く人々に親しまれています。
- 今昔物語や江談抄に語られる
小野篁の伝説 -
663highland, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, via Wikimedia Commons 今昔物語集や江談抄によると、小野篁は昼は朝廷に仕え、夜は冥界で閻魔王のもとに赴いていたと伝えられています。
なぜこのような伝説が生まれたのかは定かではありませんが、篁が身長180cmを超える偉丈夫であったこと、反骨精神旺盛で激情家であったこと、刑罰を司る役職についていたことなどが、その奇怪な伝説の背景にあるのかもしれません。
京都市東山区にある寺院:六道珍皇寺には篁が地獄を行き来したという井戸(画像左奥)があります。 - 小野篁卿墓・紫式部墓所
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小野篁の墓は、紫式部(百人一首57番)の墓と並んで建てられています。
平安時代末期、愛欲を描いた『源氏物語』の作者である紫式部は、「死後、地獄に落ちたのではないか」と人々に心配されました。
そこで、閻魔庁で働く小野篁の力を借りて救済を願うため、紫式部の墓を篁の墓の隣に移したという伝承が残っており、現在もその墓は静かに佇んでいます。
2026年8月8日撮影
- 葛飾北斎による浮世絵
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National Diet Library, Public domain, via Wikimedia Commons 江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎による作品『百人一首姥かゑとき』です。百人一首の歌を乳母がわかりやすく絵で説明するという趣旨で制作されたものです。
アワビを獲る女性たちと獲ったアワビを船上で待ち受ける男性たちが描かれています。遠方には島々が描かれており、歌に詠まれた八十島(瀬戸内海に浮かぶ数多くの島)が再現されています。
- 歌川国芳の『百人一首之内』
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British Museum, Public domain, via Wikimedia Commons 江戸時代の浮世絵師・歌川国芳による浮世絵です。
百人一首の情景を描いているとしたら、大きな船は護送船ということになりますが、どうもそのような雰囲気ではなさそうです。
この大きな船は、もしかしたら篁が乗船を拒否した遣唐使船なのかもしれません。あるいは、手前の小舟が護送船でしょうか。
篁とつながりの深い遣唐使船と護送船が同じ空間にあることは考えにくいので、大きな船は篁の心の内にある過去への憧憬で、大波に揺られて危なげな小舟はこれから島流しされる篁の不安な気持ちを表しているのかもしれません。