時雨の百人一首

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Translated by WILLIAM N. PORTER
English Audio:LibriVox

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大弐三位だいにのさんみ

ありま山やま
猪名いなの笹原ささはら
風かぜ吹ふけば
いでそよ人ひとを
忘わすれやはする

大弐三位

いてそよひ
とをわすれ
やはする

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ありま

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58番歌
ありま山やま 猪名いなの笹原ささはら 風かぜ吹ふけば
いでそよ人ひとを 忘わすれやはする
作者:大弐三位だいにのさんみ(999年頃~1082年頃)
出典:後拾遺和歌集 恋
現代語訳
有馬山に近い猪名の笹原に風が吹きそよそよと音が響きわたります。さぁそうですよ。私があなたのことを忘れられるでしょうか。いいえ忘れられません。
解説
久しく連絡の途絶えていた男性から「心変わりしたのではないか」との手紙が送られてきて、それに対する返事として生まれたのがこの歌です。
どんな人?
大弐三位こと、賢子かたこは紫式部の娘であり、母と同じように一条天皇の中宮・彰子に仕えました。その後、後冷泉天皇の乳母を務めたことが契機となり、天皇の即位後、従三位(公卿)にまで出世しました。大弐三位の名前の由来は、30代半ばで再婚した高階成章の官職が大宰大弐であったことと彼女自身の位階が従三位であったことに基づくとされています。
品詞分解と文法
歌のイメージ
大弐三位の歌のイメージ

この画像は、William N. Porter氏が1909年にイギリスで出版した百人一首の英訳本『A Hundred Verses from Old Japan』の挿絵を元にAdobe Firefly(生成AI)で色を付けて、アレンジしたイメージです。

大弐三位の略年表
999年頃
藤原宣孝と紫式部の娘として誕生
1001年
父・宣孝が死去
1017年頃
母の後を継いで彰子に仕える
1025年以前
藤原道兼の二男・藤原兼隆と初婚
1025年
親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母となる
1037年頃
高階成章と再婚
1045年
後冷泉天皇が即位すると、典侍となる
1054年
従三位に叙される
1078年
承暦二年内裏歌合に出詠
1082年頃
死去
大弐三位の系図
  • 茶字天皇
  • 天皇の代数
  • 紫字摂政・関白になった人物
  • 百人一首の歌番号(クリックで歌のページへ)
  • =婚姻
100%
時姫 兼家 道綱母53 道隆 詮子 道長 源倫子 道兼 遠量の娘 紫式部57 宣孝 定子 一条66 彰子 兼隆 大弐三位58彰子に仕え、後冷泉天皇の乳母に 高階成章 後一条68 後朱雀69 嬉子 娘 高階為家 娘 後冷泉70

大弐三位は、母の紫式部と同じく一条天皇の后である彰子に仕えました。

彼女は、藤原道長の子である藤原頼宗や藤原公任の子である藤原定頼、源朝任らと交際があったことが知られています。その後、藤原道長の兄である藤原道兼の子・藤原兼隆と結婚し、娘をもうけました。

しかし、このときの出産が転機となり、彰子の孫・親仁親王(後の後冷泉天皇)が誕生すると乳母に任じられました。後冷泉天皇が即位すると、大弐三位は、典侍に任じられ、のちに従三位に叙せられました。

大弐三位は、その後、高階成章と再婚し、高階為家と娘をもうけました。1054年には、夫の成章が大宰大弐に任じられました。「大弐三位」という呼び名は、夫の官職「大宰大弐」と自身の位階「三位」を合わせたものです。

晩年は、夫に先立たれましたが、歌合に参加した記録などから80歳ぐらいまで長生きしたと考えられています。

付録
大弐三位の年表
(クリックで開閉します。)

大弐三位(藤原賢子)誕生

母・紫式部、父・藤原宣孝の娘として誕生しました。

父・藤原宣孝が死去

母・紫式部が死去

一条院の女院・彰子に出仕

母・紫式部と同じように一条院の女院・彰子(上東門院)に女房として出仕しました。
関白・藤原道兼の次男・兼隆と結婚し、娘をもうけています。

親仁親王の乳母に任じられる

のちに後冷泉天皇となる親仁親王の乳母に選ばれました。

高階成章と再婚

高階為家誕生

夫・高階成章との間に高階為家をもうけました。

典侍ないしのすけに任じられる

後冷泉天皇が即位すると、乳母だった大弐三位は、女官の中で最高位である典侍に任じられました。

夫・高階成章が
大宰大弐に任ぜられる

同じ年、大弐三位も従三位に叙せられました。

高階成章は、大宰府に赴任した翌年に、従三位に叙せられました。

「大弐三位」という呼び名はこの頃から用いられるようになったと考えられています。

夫・高階成章が死去

高階成章は、任地の大宰府にて69歳で亡くなりました。

彰子(上東門院)が崩御

大弐三位死去

長寿を全うしました。

大弐三位が藤原頼宗に詠んだ歌
『後拾遺和歌集』の詞書に「堀川右大臣のもとにつかはしける」と記されています。
この歌は、大弐三位が藤原道長の子である藤原頼宗に贈った和歌です。

原文

恋こいしさの 憂うきにまぎるる ものならば
またふたたびと 君きみを見みましや 『後拾遺和歌集』大弐三位

現代語訳

あなたを恋しく思う気持ちが日々の煩わしいことで紛れるなら、再びあなたに会いたいと思うでしょうか。(いいえ気は紛れないので、会いたいのです。)

藤原定頼との贈答歌
次の歌は、藤原定頼と大弐三位の贈答歌です。
藤原定頼の歌
定頼は、大弐三位になかなか会えないので、代わりに梅の花を大弐三位だと思って見ているという歌を詠んでいます。
彼は、梅の枝に添えて、この和歌を大弐三位に贈りました。

原文

見みぬ人ひとに よそへて見みつる 梅うめの花はな
散ちりなむ後あとの なぐさめぞなき 『新古今和歌集』藤原定頼

現代語訳

会えないあなたを偲んで見ていた梅の花。散ってしまったら慰めるものがなくなるに違いありません。

大弐三位の歌
大弐三位は、定頼を梅の枝に見立て、返歌しました。
別の女性の移り香が付いていると浮気癖のある定頼を揶揄しています。

原文

春はるごとに 心こころをしむる 花はなの枝えに
たがなほざりの 袖そでかふれつる 『新古今和歌集』大弐三位

現代語訳

春が来るたびに私の心を満たし、私の心を染み込ませてきた花の枝に誰が気まぐれに袖を触れさせて、香りを移させたのでしょうか。

万葉集の歌
猪名野と有馬山を詠み込んだ歌は万葉集の時代からありました。

原文

しなが鳥どり 猪名野いなのを来くれば 有馬山ありまやま
夕霧ゆうぎり立たちぬ 宿やどりはなくて 『万葉集』詠み人知らず

現代語訳

しなが鳥が飛ぶ猪名野を訪れると
有馬山に夕霧が立っていました。
宿はないのに。

蘆山寺(大弐三位と紫式部の歌碑)
蘆山寺(大弐三位の歌碑)

京都市上京区にある蘆山寺は、大弐三位ゆかりの地として知られています。かつてこの一帯には、彼女の高祖父(4代前)である藤原兼輔の邸宅があり、大弐三位は、母の紫式部と同じくここで生まれ育ちました。

境内には大弐三位と紫式部の歌碑があるほか、白砂と苔の美しい枯山水庭園「源氏庭」が整備され、見頃を迎える夏には、紫式部のイメージと重なる可憐な紫色の桔梗が境内を彩ります。

2026年8月8日撮影

一条天皇の宮廷サロン
大弐三位は、一条天皇の宮廷サロンで活躍しました。宮廷サロンの相関図はこちらをご覧ください。