時雨の百人一首

トップ コラム アプリ English 百人一首一覧

三十六歌仙 一覧
歌仙絵と和歌

藤原公任が編んだ秀歌撰『三十六人撰』は、歌人を左右一組の番つがいにして歌合の形で並べています。
『小倉百人一首』にも三十六歌仙から多くの歌人が選ばれており、百人一首の歌人選を考えるうえでも重要な存在です。
このページでは、『三十六人撰』の番の順に三十六歌仙を並べ、歌仙絵とともに紹介します。歌仙絵に書かれた和歌一首とその現代語訳、歌人の人物紹介を掲載しています。

画像:Wikimedia Commons(Public domain)
原典:金刀比羅宮「三十六歌仙額」

一番

柿本人麻呂の歌仙絵

(生年不詳~708年頃)

飛鳥時代の宮廷歌人。持統・文武天皇の時代に仕え、『万葉集』を代表する歌人として長歌・短歌に優れた作品を残しました。後世、山部赤人とともに歌聖と並び称されました。

百人一首 3番の歌へ

左柿本人麻呂かきのもとのひとまろ

ほのぼのと あかしの浦うらの 朝霧あさぎりに

島しまがくれゆく 舟ふねをしぞ思おも ふ

ほのぼのと明るくなる明石の浦に立ち込める朝霧の中を
島に隠れながら行く舟は感慨深い。

紀貫之の歌仙絵

(868年頃~945年)

『古今和歌集』撰者の中心人物で、仮名序を書きました。『土佐日記』の作者としても知られます。

百人一首 35番の歌へ

右紀貫之きのつらゆき

むすぶ手ての しづくに濁にごる 山やまの井い の

あかでも人ひとに 別わかれぬるかな

掬いあげた手から落ちる雫で
山の井の水が濁って十分に飲めない。
同じように、あなたと十分に思いを
交わせないまま別れてしまった。

二番

凡河内躬恒の歌仙絵

(859年頃~925年頃)

『古今和歌集』撰者の一人。官位は低かったものの、紀貫之と並ぶ歌人として宮廷の歌合や屏風歌で活躍しました。

百人一首 29番の歌へ

左凡河内躬恒おおしこうちのみつね

住すみの江えの 松まつを秋風あきかぜ 吹ふくからに

声こえうちそふる 沖おきつ白波しらなみ

住の江の松に秋風が吹きつけると、
その松風に声を添えるように寄せてくる沖の白波。

伊勢の歌仙絵

(872年頃~938年頃)

宇多天皇の中宮温子に仕えた女房。宇多天皇の皇子を産み、「伊勢の御息所」と呼ばれました。『古今和歌集』には女性歌人として最多となる22首が収められています。娘の中務も三十六歌仙の一人です。

百人一首 19番の歌へ

右伊勢いせ

三輪みわの山やま いかに待まち見みむ 年とし経ふとも

たづぬる人ひとも あらじと思おもへば

三輪でどのようにあなたをお待ちしたらよいでしょう。
年を経ても訪ねてくる人もないと思いますのに。

三番

大伴家持の歌仙絵

(718年頃~785年)

大伴旅人の子で、『万葉集』の編纂に深く関わったとされます。『万葉集』に最も多くの歌が収められている歌人です。

百人一首 6番の歌へ

左大伴家持おおとものやかもち

巻向まきむくの 檜原ひばらもいまだ 曇くも らねば

小松こまつが原はらに 泡雪あわゆき ぞ降ふる

巻向山の檜の林はまだ曇っていないのに、
麓の小松原にはもう泡雪が降っている。

山部赤人の歌仙絵

(生没年不詳)

奈良時代の宮廷歌人。自然の情景を清らかに詠んだ叙景歌に優れ、後世、柿本人麻呂とともに歌聖と並び称されました。

百人一首 4番の歌へ

右山部赤人やまべのあかひと

明日あすからは 若菜わかな摘つまむと 標しめし野のに

昨日きのうも今日きょうも 雪ゆきは降ふりつつ

明日から若菜を摘もうと、野原に目印を付けておいたのに、
昨日も今日も雪が降り続いているよ。

四番

在原業平の歌仙絵

(825年~880年)

平城天皇の孫。六歌仙の一人。情熱的な恋の歌で知られ、『伊勢物語』の主人公「昔男」のモデルとされています。

百人一首 17番の歌へ

左在原業平ありわらのなりひら

世よの中なかに たえて桜さくらの なかりせば

春はるの心こころは のどけからまし

世の中に桜がまったくなければ、
春を過ごす人の心はどれほどのどかなものでしょうか。

僧正遍昭の歌仙絵

(816年~890年)

俗名は良岑宗貞よしみねのむねさだ。仁明天皇に仕え、天皇の崩御を機に出家しました。六歌仙の一人で、素性法師の父です。

百人一首 12番の歌へ

右僧正遍昭そうじょうへんじょう

末すえの露つゆ もとの雫しずくや 世よの中なかの

後おくれ先立さきだつ ためしなるらむ

葉の先の露と根元に落ちた雫。
人が先に世を去ったり、後に残されたりするのも
この世の儚さの一つの例なのだろうか。

五番

素性法師の歌仙絵

(生没年不詳)

僧正遍昭の子。父の勧めで若くして出家しました。『古今和歌集』に多くの歌が採られた、宇多・醍醐朝を代表する歌僧です。

百人一首 21番の歌へ

左素性法師そせいほうし

見み渡わたせば 柳やなぎ桜さくらを こきまぜて

都みやこぞ春はるの 錦にしきなりける

見渡すと柳と桜がまじり合って、
この都こそが春の錦だったのだなあ。

紀友則の歌仙絵

(845年頃~907年)

紀貫之の従兄弟。『古今和歌集』の撰者に任じられましたが、完成を見ずに亡くなりました。

百人一首 33番の歌へ

右紀友則きのとものり

夕ゆうされば 佐保さほの川原かわらの 川霧かわぎりに

友ともまどはせる 千鳥ちどり鳴なくなり

夕方になると、佐保川の河原に川霧が立ちこめて、
仲間を見失った千鳥が鳴いているよ。

六番

猿丸太夫の歌仙絵

(生没年不詳)

経歴がまったくわからない伝説的な歌人です。実在を疑う説もあり、各地に猿丸太夫にまつわる伝承が残っています。

百人一首 5番の歌へ

左猿丸太夫さるまるだゆう

奥山おくやまに 紅葉もみじ踏ふみ分わけ 鳴なく鹿しかの

声こえ聞きく時ときぞ 秋あきは悲かなしき

人里離れた奥山に紅葉を踏み分け入っていくと、
鹿の鳴き声が響く。
その声を聞くとき、秋はひとしお悲しく感じられる。

小野小町の歌仙絵

(生没年不詳)

仁明天皇の時代ごろの女流歌人。六歌仙の中で唯一の女性です。絶世の美女として知られ、各地に数多くの小町伝説が残っています。

百人一首 9番の歌へ

右小野小町おののこまち

色いろ見みえで うつろふものは 世よ の中なかの

人ひとの心こころの 花はなにぞありける

色は見えないけれど、移ろってしまうものは、
恋する人の心という花なのですね。

七番

藤原兼輔の歌仙絵

(877年~933年)

賀茂川の堤のそばに邸宅があったことから「堤中納言」と呼ばれました。紀貫之らの歌人を庇護し、紫式部の曽祖父にあたります。

百人一首 27番の歌へ

左藤原兼輔ふじわらのかねすけ

人ひとの親おやの 心こころは闇やみに あらねども

子こを思おもふ道みちに 惑まどひぬるかな

人の親の心は闇というものではないけれど、
子を思う道は闇のように迷ってしまうものですよ。

藤原朝忠の歌仙絵

(910年~967年)

三条右大臣藤原定方の子です。笙の名手としても知られ、天徳内裏歌合でも活躍しました。

百人一首 44番の歌へ

右藤原朝忠ふじわらのあさただ

逢おふことの 絶たえてしなくは なかなかに

人ひとをも身みをも 恨うらみざらまし

もし逢うことが全くないなら、
あの人のつれなさも我が身のいたらなさも
恨まずに済んだのに。

八番

藤原敦忠の歌仙絵

(906年~943年)

左大臣藤原時平の子。美男で管弦にも優れ、琵琶の名手と称されましたが、38歳の若さで亡くなりました。

百人一首 43番の歌へ

左藤原敦忠ふじわらのあつただ

逢あひ見みての 後のちの心こころに くらぶれば

昔むかしはものを 思おもはざりけり

逢って契りを結んだ後の気持ちと比べてみたら、
逢う前の物思いなんて何でもなかったようです。

藤原高光の歌仙絵

(939年頃~994年)

右大臣藤原師輔の子。将来を嘱望されながら若くして出家し、比叡山を経て多武峰とうのみねに住みました。その出家は、平安中期の仮名文学『多武峯少将物語』に描かれています。

※高光はこの歌を詠んだ後に出家しました。

右藤原高光ふじわらのたかみつ

かくばかり 経へがたく見みゆる 世よ の中なかに

うらやましくも 澄すめる月つきかな

このように過ごし難く思える世の中に
うらやましくも憂いなく澄んでいる月であることよ。

九番

源公忠朝臣の歌仙絵

(889年~948年)

光孝天皇の孫。醍醐・朱雀天皇に仕えました。香の調合や鷹狩にも通じた風流人で、子の源信明も三十六歌仙の一人です。

左源公忠朝臣みなもとのきんただあそん

行ゆきやらで 山路やまじ暮くらしつ ほととぎす

今いまひと声こえの 聞きかまほしさに

通り過ぎることができず、山道で一日を過ごしてしまった。
ほととぎすの鳴き声を、もう一声聞きたいと思って。

壬生忠岑の歌仙絵

(860年頃~920年頃)

『古今和歌集』撰者の一人。身分は低かったものの歌才に優れ、歌論書『和歌体十種』の作者ともされます。壬生忠見の父です。

百人一首 30番の歌へ

右壬生忠岑みぶのただみね

春はる立たつと 言いふばかりにや み吉野よしのの

山やまも霞かすみて 今朝けさは見みゆらむ

立春だと言うだけで、吉野の山も霞んで、
今朝は春めいて見えるのだろうか。

十番

斎宮女御の歌仙絵

(929年~985年)

徽子女王きしじょおう。重明親王の娘で、伊勢の斎宮を務めたのち村上天皇の女御となりました。琴の名手として知られます。

左斎宮女御さいぐうのにょうご

琴ことの音ねに 峰みねの松風まつかぜ 通かよふらし

いづれの緒おより 調しらべ初そめけむ

美しい琴の音に峰の松風の音の調べが調和している。
琴の緒おか峰の尾おかどちらから奏で始められたのだろう。

大中臣頼基の歌仙絵

(886年頃~956年または958年)

伊勢神宮の祭主を務めた神官の家柄の歌人。子の大中臣能宣も三十六歌仙に選ばれています。

※この歌は醍醐天皇の中宮・藤原穏子の五十賀の際に贈られた竹杖に添えられた和歌です。

右大中臣頼基おおなかとみのよりもと

ひと節ふしに 千代ちよをこめたる 杖つえ なれば

突つくとも尽つきじ 君きみがよはひは

一節ごとに千年の長寿を込めた杖ですから
いくら突いても皇太后さまの寿命は尽きないでしょう。

十一番

藤原敏行の歌仙絵

(生年不詳~901年)

宇多・醍醐朝の歌人。書の名手としても名高く、神護寺の鐘の銘文を書いたと伝えられています。

百人一首 18番の歌へ

左藤原敏行ふじわらのとしゆき

秋あき来きぬと 目めにはさやかに 見みえねども

風かぜの音おとにぞ おどろかれぬる

秋が来たと目にはっきり見えませんが、
風の音ではっと気づかされました。

源重之の歌仙絵

(生年不詳~1000年)

清和天皇の曽孫。地方官を歴任し、晩年は陸奥守となった藤原実方に従って陸奥へ下り、その地で没したといわれます。

百人一首 48番の歌へ

右源重之みなもとのしげゆき

風かぜをいたみ 岩いわ打うつ波なみの おのれのみ

砕くだけてものを 思おもふころかな

風が激しく吹くので、
岩に打ち寄せる波がひとりでに砕け散るように、
私だけ心を砕かれて、物思いをするこの頃ですよ。

十二番

源宗于の歌仙絵

(生年不詳~940年)

光孝天皇の孫。臣籍に下って源姓を名乗りましたが、官位には恵まれず、不遇を嘆く歌も残しています。

百人一首 28番の歌へ

左源宗于みなもとのむねゆき

常磐ときわなる 松まつの緑みどりも 春はる来くれば

今いまひとしほの 色いろまさりけり

変わらない松の色も
春が来たので一段と緑が濃くなりました。

源信明の歌仙絵

(910年~970年)

源公忠の子。女流歌人の中務と恋愛関係にあり、二人が交わした歌が多く残っています。

右源信明みなもとのさねあきら

あたら夜よの 月つきと花はなとを 同おなじくは

あはれ知しれらむ 人ひとに見みせばや

明けてしまうのが惜しいこの夜の月と花を、
同じことならものの情趣を解する人に見せたいものだ。

十三番

藤原清正の歌仙絵

(生年不詳~958年)

堤中納言藤原兼輔の子。この歌は、殿上人(雲の上の人)に戻りたいという願いを鶴に託したものといわれます。

左藤原清正ふじわらのきよただ

天あまつ風かぜ ふけゐの浦うらに ゐる鶴たづの

などか雲居くもいに 帰かえらざるべき

空の風が吹く吹飯浦ふけいのうらにいる鶴が
どうして雲の上に帰らないことがあろうか。

源順の歌仙絵

(911年~983年)

「梨壺の五人」の一人として『後撰和歌集』の撰集と『万葉集』の訓読に携わりました。日本最初の分類体の漢和辞書『和名類聚抄』の編者でもあります。

※和菓子の「最中」はこの歌からとられたといわれています。

右源順みなもとのしたごう

水みの面おもに 照てる月つきなみを 数かぞふれば

今宵こよいぞ秋あきの 最中もなかなりける

池の水面に月が照りさざ波が輝く。
月次つきなみを数えてみれば、今宵は秋の真ん中の中秋の名月であったのだ。

十四番

藤原興風の歌仙絵

(生没年不詳)

宇多・醍醐朝の歌人。管弦にも秀で、琴の名手として知られました。

百人一首 34番の歌へ

左藤原興風ふじわらのおきかぜ

契ちぎりけむ 心こころぞつらき 織女たなばた の

年としにひとたび 逢あふは逢あふかは

年に一度だけ逢うと約束したという
織姫の心はつらいことだ。
年にたった一度しか逢えないのでは、逢うことにならない。

清原元輔の歌仙絵

(908年~990年)

清原深養父の孫で、清少納言の父。「梨壺の五人」の一人として『後撰和歌集』の撰者を務めました。

百人一首 42番の歌へ

右清原元輔きよはらのもとすけ

音無おとなしの 川かわとぞつひに 流なが れ出いづる

言いはで物もの思おもふ 人ひとの涙なみだは

とうとう音無川のように流れ出てしまった。
口に出さずに恋に悩む人の涙は。

十五番

坂上是則の歌仙絵

(生年不詳~930年)

坂上田村麻呂の子孫。醍醐朝の歌人で、蹴鞠の名手としても知られています。

百人一首 31番の歌へ

左坂上是則さかのうえのこれのり

み吉野よしのの 山やまの白雪しらゆき 積つもるらし

ふるさと寒さむく なりまさるなり

吉野の山には雪が降り積もるだろう。
奈良の都も寒さが一段と増して来るのだから。

藤原元真の歌仙絵

(生没年不詳)

村上天皇の時代の歌人。地方官を務めた中流貴族で、家集『元真集』が残っています。

右藤原元真ふじわらのもとざね

咲さきにけり 我わが山里やまざとの 卯うの花はなは

垣根かきねに消きえぬ 雪ゆきと見みるまで

山里に卯木うつぎが花盛りだ。
垣根に消えない白い雪のように。

十六番

小大君の歌仙絵

(生没年不詳)

三条天皇が東宮だった頃に仕えた女房で、「東宮左近」とも呼ばれました。機知に富んだ歌で知られます。

※葛城の神・一言主ひとことぬしが容貌を恥じて夜しか働かなかったため、役行者 えんのぎょうじゃの架けようとした久米路の岩橋が完成しなかったという伝説によります。

左小大君こおおきみ

岩橋いわはしの 夜よるの契ちぎりも 絶たえぬべし

明あくるわびしき 葛城かつらぎの神かみ

久米路の岩橋の工事が途絶えたように、私たちの仲も終わるのでしょう。
容姿を恥じた葛城の神のように、私も夜明けがつらいのです。

藤原仲文の歌仙絵

(923年~992年)

冷泉天皇が東宮だった頃に仕え、のちに地方官を歴任しました。月の出を待つ夜の更けゆくさまに、我が身の老いを重ねて詠んでいます。

右藤原仲文ふじわらのなかふみ

有明ありあけの 月つきの光ひかりを 待まつほどに

我わが世よのいたく 更ふけにけるかな

有明の月の光を待つうちに
夜は更けわたり、私も年を取ったものよ。

十七番

大中臣能宣の歌仙絵

(921年~991年)

大中臣頼基の子で、伊勢神宮の祭主を務めました。「梨壺の五人」の一人。孫に伊勢大輔がいます。

※子の日の祝いとは正月の初子の日の行事で、平安貴族は野に出て小松を根引きし、長寿を願いました。

百人一首 49番の歌へ

左大中臣能宣おおなかとみのよしのぶ

千年ちとせまで 限かぎれる松まつも 今日きょうよりは

君きみに引ひかれて 万代よろづよや経へむ

千年までと寿命が限られる松も
今日からはあなたに引かれて万年の命を保つでしょう。

壬生忠見の歌仙絵

(生没年不詳)

壬生忠岑の子。天徳内裏歌合で平兼盛に敗れ、その落胆から病になったという逸話が伝わっています。

百人一首 41番の歌へ

右壬生忠見みぶのただみ

恋こいすてふ 我わが名なはまだき 立たちにけり

人ひと知しれずこそ 思おもひそめしか

恋をしているという噂が早くも立ってしまった。
気づかれないように心の中で
密かに想い始めたばかりなのに。

十八番

平兼盛の歌仙絵

(生年不詳~991年)

光孝天皇の曾孫。天徳てんとく内裏だいりの歌合うたあわせで「しのぶれど」の歌を詠み、村上天皇がこの歌を口ずさんだことで、壬生忠見との勝負に勝ったと伝えられています。

百人一首 40番の歌へ

左平兼盛たいらのかねもり

数かぞふれば 我わが身みに積つもる 年月としつきを

送おくり迎むかふと なにいそぐらむ

数えてみれば、我が身に積もって老いが重なるばかりなのに、
どうして人は年を送ったり、新年を迎えようとしたりして、
慌ただしく過ごすのだろう。

中務の歌仙絵

(912年頃~991年頃)

敦慶親王と伊勢の娘。母とともに三十六歌仙に選ばれました。百人一首には選ばれていませんが、母譲りの歌の才能で、勅撰和歌集には69首も採られています。

右中務なかつかさ

秋風あきかぜの 吹ふくにつけても 訪とはぬかな

荻おぎの葉はならば 音おとはしてまし

秋風が吹く季節になっても
あなたは訪れる気配けはいすらありませんね。
荻おぎの葉ならば音を立てるでしょうに。