百人一首 人物図鑑
百人一首の歌人100人を五十音順、時代別、テーマ別、出典の勅撰和歌集、身分・職業などで並び替えたり、絞り込みできます。
画像は、William N. Porter氏が1909年にイギリスで出版した『A Hundred Verses from Old Japan』で使用された挿絵をベースにAdobe Fireflyで着彩、アレンジしたイメージです。各カードには、その歌人の和歌と現代語訳も表示されています。
カードに記載している推定年収は、歌人が生涯で到達した最も高い位階をもとに算出した目安です。詳しくは平安貴族の年収換算をご覧ください。
1
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天智天皇
飛鳥・奈良
626年~672年
中大兄皇子として中臣鎌足とともに蘇我氏を倒し(乙巳の変)、大化の改新を進めた。白村江の戦いでの敗北後は近江大津宮へ遷都し、668年に即位。庚午年籍の作成や近江令の施行で、律令国家の基礎を築いた。
秋(後撰集)
秋の田の
かりほの庵の
苫をあらみ
我が衣手は
露にぬれつつ
かりほの庵の
苫をあらみ
我が衣手は
露にぬれつつ
2
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持統天皇
飛鳥・奈良
645年~703年
天智天皇の皇女で、本名は鸕野讃良。13歳で大海人皇子(天武天皇)に嫁ぎ、壬申の乱で夫とともに勝利した。夫の崩御後、息子の草壁皇子が夭折したため690年に即位。飛鳥浄御原令の施行や藤原京への遷都を進めた。
夏(新古今集)
春過ぎて
夏来にけらし
白妙の
衣ほすてふ
天の香具山
夏来にけらし
白妙の
衣ほすてふ
天の香具山
3
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柿本人麻呂
飛鳥・奈良
生年不詳~708年頃
朝廷に仕え、天皇の賛歌や皇子の挽歌を詠んだ。抒情詩に優れ、山部赤人とともに「歌聖」と称され、和歌の神様として尊ばれた。生没年など経歴に不明点が多く、石見国で708年頃に没したとされるが、死因は行き倒れ説と刑死説があり定かでない。
恋(拾遺集)
あしびきの
山鳥の尾の
しだり尾の
ながながし夜を
ひとりかも寝む
山鳥の尾の
しだり尾の
ながながし夜を
ひとりかも寝む
4
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山部赤人
飛鳥・奈良
生没年不詳
奈良時代の万葉歌人で、聖武天皇に仕えた。下級官人ながら自然を詠む才に恵まれ、行幸に随行して各地の風景を詠んだ歌を多く残した。柿本人麻呂と並ぶ「歌聖」と称され、三十六歌仙の一人に数えられる。作歌年の分かる歌は724〜736年。
冬(新古今集)
田子の浦に
うちいでてみれば
白妙の
富士の高嶺に
雪は降りつつ
うちいでてみれば
白妙の
富士の高嶺に
雪は降りつつ
5
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猿丸太夫
飛鳥・奈良
生没年不詳
生没年や生涯が一切記録されず、具体的な来歴や業績もわからないため、伝説上の歌人と言われる。奈良後期か平安初期の人物とされ、『古今和歌集』真名序に名前が記され、三十六歌仙の一人にも数えられている。
秋(古今集)
奥山に
紅葉踏み分け
鳴く鹿の
声聞く時ぞ
秋はかなしき
紅葉踏み分け
鳴く鹿の
声聞く時ぞ
秋はかなしき
6
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中納言家持
飛鳥・奈良
718年頃~785年
大伴旅人の子で、万葉集の編纂者とされる奈良時代の歌人。783年に中納言となったが、785年の死後、藤原種継暗殺事件に連座して除名され、遺骨は隠岐へ流された。806年に恩赦を受け、官位が回復した。
冬(新古今集)
かささぎの
渡せる橋に
おく霜の
白きをみれば
夜ぞふけにける
渡せる橋に
おく霜の
白きをみれば
夜ぞふけにける
7
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安倍仲麻呂
飛鳥・奈良
698年~770年
阿倍船守の長男で、10代後半で遣唐使とともに唐に渡った。科挙に合格して玄宗皇帝に仕え、王維や李白とも親交を深めた。才能を惜しまれて帰国を許されず、753年の帰国船は遭難してベトナムに漂着。770年に唐で没した。
旅(古今集)
天の原
ふりさけみれば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも
ふりさけみれば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも
8
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喜撰法師
平安前期
生没年不詳
六歌仙の一人だが、生涯や出自はほとんど記録がなく、実在の人物というより文学的象徴として語り継がれてきた可能性がある。後世に伝わる歌は2首のみで、確実に本人の作とされるのは『古今和歌集』の1首だけである。
その他(古今集)
わが庵は
都の辰巳
しかぞすむ
世をうぢ山と
人はいふなり
都の辰巳
しかぞすむ
世をうぢ山と
人はいふなり
9
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小野小町
平安前期
生没年不詳
平安前期の歌人で、出羽の郡司・小野良真の娘と伝えられるが、生誕や生涯は謎に包まれている。仁明天皇や文徳天皇の後宮に仕え、宮廷で和歌の才を発揮したとされる。六歌仙・三十六歌仙の一人で、絶世の美女として多くの伝説が語られた。
春(古今集)
花の色は
うつりにけりな
いたづらに
わが身よにふる
ながめせしまに
うつりにけりな
いたづらに
わが身よにふる
ながめせしまに
10
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蝉丸
平安前期
生没年不詳
醍醐天皇の第四皇子と伝えられるが、盲目のため逢坂山に置き去りにされたとされる。その後は琵琶法師として生計を立て、琵琶に合わせて歌う声が蝉の鳴き声を思わせたことが名の由来という説がある。逢坂山の麓で没したとする伝承がある。
その他(後撰集)
これやこの
行くも帰るも
わかれては
しるもしらぬも
逢坂の関
行くも帰るも
わかれては
しるもしらぬも
逢坂の関
11
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参議篁
平安前期
802年~853年
本名は小野篁で、小野小町の祖父。834年に遣唐副使となったが、漏水した船との交換命令を拒んで乗船せず、漢詩『西道謡』で遣唐使を批判して隠岐へ流罪となった。840年に許されて帰京し、847年に参議となった。
旅(古今集)
わたの原
八十島かけて
漕ぎ出でぬと
人にはつげよ
あまのつり舟
八十島かけて
漕ぎ出でぬと
人にはつげよ
あまのつり舟
12
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僧正遍昭
平安前期
816年~890年
俗名は良岑宗貞。桓武天皇の孫で、816年に生まれ、仁明天皇に蔵人頭として仕えた。850年の天皇の崩御を機に世の無常を感じて出家し、885年に僧正となった。890年に没した。六歌仙・三十六歌仙の一人。
その他(古今集)
天つ風
雲のかよひ路
吹きとぢよ
をとめの姿
しばしとどめむ
雲のかよひ路
吹きとぢよ
をとめの姿
しばしとどめむ
13
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陽成院
平安前期
869年~949年
清和天皇の皇子で、9歳で即位したが、精神の病が原因で17歳で譲位したとされる(藤原基経の画策とする説もある)。以後は60年以上上皇の地位にあり、上皇として歴代最長の期間を記録。949年に崩御した。
恋(後撰集)
筑波嶺の
峰より落つる
みなの川
こひぞつもりて
淵となりぬる
峰より落つる
みなの川
こひぞつもりて
淵となりぬる
14
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河原左大臣
平安前期
822年~895年
本名は源融。嵯峨天皇の皇子だが、母の身分が低く臣籍降下した。872年に左大臣となり、陽成院の退位時に自ら即位を望んだが藤原基経に阻まれた。京の六条に豪華な河原院を築き、光源氏のモデルともいわれる。
恋(古今集)
陸奥の
しのぶもぢずり
誰ゆゑに
乱れそめにし
我ならなくに
しのぶもぢずり
誰ゆゑに
乱れそめにし
我ならなくに
15
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光孝天皇
平安前期
830年~887年
仁明天皇の皇子で、陽成院が退位した後、藤原基経の推挙により884年に55歳で即位した。在位は3年で、政治の実権は主に基経が握った。『日本三代実録』に謙虚で温和、情け深いと評された人柄は歌にも表れている。
春(古今集)
君がため
春の野に出でて
若菜つむ
わが衣手に
雪は降りつつ
春の野に出でて
若菜つむ
わが衣手に
雪は降りつつ
16
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中納言行平
平安前期
818年~893年
在原行平。平城天皇の皇子・阿保親王の第二子で、在原業平の異母兄。播磨守や蔵人頭などを経て、882年に中納言となった。881年に在原氏の学問所・奨学院を創設し、教育にも熱心だった。893年に没した。
別れ(古今集)
立ち別れ
いなばの山の
峰に生ふる
まつとし聞かば
今帰りこむ
いなばの山の
峰に生ふる
まつとし聞かば
今帰りこむ
17
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在原業平朝臣
平安前期
825年~880年
在原業平。平城天皇の皇子・阿保親王の子で、臣籍降下した。自由奔放で和歌に優れ、『伊勢物語』の主人公とされる。右近衛権中将、蔵人頭を歴任し、880年に没した。六歌仙・三十六歌仙の一人。
秋(古今集)
ちはやぶる
神代もきかず
竜田川
から紅に
水くくるとは
神代もきかず
竜田川
から紅に
水くくるとは
18
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藤原敏行朝臣
平安前期
生年不詳~901年
藤原敏行。優れた能書家で、頼まれて多くの法華経を書写した。不浄の身のまま書写して地獄に落ちたという逸話が『宇治拾遺物語』にある。897年に従四位上・右兵衛督となり、901年に没した。三十六歌仙の一人。
恋(古今集)
住の江の
岸による波
よるさへや
夢のかよひ路
人目よくらむ
岸による波
よるさへや
夢のかよひ路
人目よくらむ
19
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伊勢
平安前期
872年頃~938年頃
古今集時代を代表する歌人で、藤原継蔭の娘。宇多天皇の中宮温子に女房として仕え、天皇との間に皇子をもうけて「伊勢の御息所」と呼ばれた。敦慶親王との間に、同じく歌人となる娘の中務を産んだ。938年頃に没した。
恋(新古今集)
難波潟
みじかき葦の
ふしのまも
逢はでこの世を
過ぐしてよとや
みじかき葦の
ふしのまも
逢はでこの世を
過ぐしてよとや
20
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元良親王
平安前期
890年~943年
陽成院の第一皇子で、譲位後の890年に誕生。当代随一の色好みで、毎晩のように女性を替えたことから「一夜めぐりの君」と呼ばれた。40歳の祝いには紀貫之が屏風歌を詠み、943年に没した。勅撰集に20首入集。
恋(後撰集)
わびぬれば
いまはたおなじ
難波なる
みをつくしても
逢はむとぞ思ふ
いまはたおなじ
難波なる
みをつくしても
逢はむとぞ思ふ
21
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素性法師
平安前期
生没年不詳
桓武天皇の曽孫で、僧正遍昭の息子。左近将監まで昇ったのち若くして出家し、雲林院に住んだ後、大和国石上の良因院に移った。出家後も宮廷の歌会で活躍し、896年に権律師となった。生没年不詳で、三十六歌仙の一人。
恋(古今集)
今こむと
いひしばかりに
長月の
有明の月を
待ち出でつるかな
いひしばかりに
長月の
有明の月を
待ち出でつるかな
22
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文屋康秀
平安前期
生年不詳~885年頃
文屋朝康の父で、平安時代を代表する歌人。六歌仙の一人。三河掾として赴任する際、同じ六歌仙の小野小町を誘ったと伝わり、二人の文学的交流で知られる。860年に刑部中判事となり、885年頃に没した。
秋(古今集)
吹くからに
秋の草木の
しをるれば
むべ山風を
嵐といふらむ
秋の草木の
しをるれば
むべ山風を
嵐といふらむ
23
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大江千里
平安前期
850年頃~905年頃
参議・大江音人の子で、学者の家系に生まれ、漢籍に詳しく和歌にも秀でた。897年に漢詩句を題材にした『句題和歌』を宇多天皇に献上し、漢詩から和歌へ移る時代を象徴する人物。官位は兵部大丞で、微官に終わった。
秋(古今集)
月みれば
ちぢにものこそ
悲しけれ
わが身一つの
秋にはあらねど
ちぢにものこそ
悲しけれ
わが身一つの
秋にはあらねど
24
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菅家
平安前期
845年~903年
菅原道真。幼少から和歌や漢詩に才能を発揮し、学者出身ながら異例の出世で899年に右大臣となった。藤原時平の讒言により901年に大宰府へ左遷され、903年に没した。993年には正一位・太政大臣を追贈された。
旅(古今集)
このたびは
幣もとりあへず
手向山
もみぢのにしき
神のまにまに
幣もとりあへず
手向山
もみぢのにしき
神のまにまに
25
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三条右大臣
平安前期
873年~932年
本名は藤原定方。藤原高藤の子で、中納言朝忠の父。三条に邸宅があり右大臣となったことから三条右大臣と呼ばれた。天皇の外戚で、924年に右大臣に昇進。紀貫之や凡河内躬恒の才能を認めて支援した。932年に没した。
恋(後撰集)
名にし負はば
逢坂山の
さねかづら
人にしられで
くるよしもがな
逢坂山の
さねかづら
人にしられで
くるよしもがな
26
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貞信公
平安前期
880年~949年
本名は藤原忠平。藤原基経の末子で、謙徳公の祖父。温厚な人柄で、兄・時平に流された菅原道真とも親交が続いた。930年に摂政、941年に関白となり、藤原氏の栄華を築く一翼を担った。949年に没し、貞信公と諡された。
秋(拾遺集)
小倉山
峰のもみぢ葉
心あらば
今ひとたびの
みゆき待たなむ
峰のもみぢ葉
心あらば
今ひとたびの
みゆき待たなむ
27
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中納言兼輔
平安前期
877年~933年
本名は藤原兼輔。紫式部の曾祖父で、紀貫之や凡河内躬恒の才能を認めて支援した。賀茂川堤の近くに邸宅を構えたことから「堤中納言」と呼ばれ、930年に中納言となった。877年に生まれ、933年に没した。三十六歌仙の一人。
恋(新古今集)
みかの原
わきて流るる
いづみ川
いつ見きとてか
恋しかるらむ
わきて流るる
いづみ川
いつ見きとてか
恋しかるらむ
28
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源宗于朝臣
平安前期
生年不詳~940年
源宗于。光孝天皇の孫という高貴な身分で、894年に源朝臣の姓を与えられ臣籍降下した。宇多天皇に和歌を献上して才能を認められたが、官位には恵まれず、939年に正四位下に叙され、940年に没した。三十六歌仙の一人。
冬(古今集)
山里は
冬ぞさびしさ
まさりける
人目も草も
かれぬと思へば
冬ぞさびしさ
まさりける
人目も草も
かれぬと思へば
29
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凡河内躬恒
平安前期
859年頃~925年頃
官位は高くなかったが、叙景歌に卓越した才能を発揮し、紀貫之と並び称される当代きっての歌人。905年に貫之らとともに『古今和歌集』の撰者となり、916年には宇多法皇の石山寺御幸に従って歌を詠んだ。三十六歌仙の一人。
秋(古今集)
心当てに
折らばや折らむ
初霜の
おきまどはせる
白菊の花
折らばや折らむ
初霜の
おきまどはせる
白菊の花
30
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壬生忠岑
平安前期
860年頃~920年頃
壬生忠見の父。警護などを担当する下級武官だったが歌の才能に恵まれ、宮中の歌会によく参加した。905年に紀貫之らとともに『古今和歌集』の撰者に抜擢された和歌の名手で、920年頃に没した。三十六歌仙の一人。
恋(古今集)
有明の
つれなく見えし
別れより
あかつきばかり
憂きものはなし
つれなく見えし
別れより
あかつきばかり
憂きものはなし
31
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坂上是則
平安前期
生年不詳~930年
征夷大将軍・坂上田村麻呂の子孫。大和権少掾として奈良に赴任した経験があり、吉野にも馴染みがあったと考えられる。蹴鞠の名人でもあり、905年に宮中で206回続けて蹴り、絹を賜った。930年に没した。三十六歌仙の一人。
冬(古今集)
朝ぼらけ
有明の月と
見るまでに
吉野の里に
降れる白雪
有明の月と
見るまでに
吉野の里に
降れる白雪
32
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春道列樹
平安前期
生年不詳~920年
古代の有力氏族・物部氏の末裔。910年に文章生となり、壱岐守に任ぜられたが、赴任前の920年に没した。家集もなく歌人として知られないが、藤原定家はこの歌を本歌取りするほど気に入っていたと考えられる。
秋(古今集)
山川に
風のかけたる
しがらみは
流れもあへぬ
紅葉なりけり
風のかけたる
しがらみは
流れもあへぬ
紅葉なりけり
33
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紀友則
平安前期
845年頃~907年
『土佐日記』や『古今和歌集』仮名序で知られる紀貫之の従兄弟。905年に『古今集』の撰者の一人となったが、完成前の907年に亡くなった。歌の才能は高く評価され、多くが勅撰和歌集に収録され、三十六歌仙にも選ばれた。
春(古今集)
久方の
光のどけき
春の日に
しづ心なく
花の散るらむ
光のどけき
春の日に
しづ心なく
花の散るらむ
34
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藤原興風
平安前期
生没年不詳
身分は高くなかったが歌人として高く評価され、家集『興風集』を残した。琴の名手で、管弦にも秀でたという。『古今集』以降の勅撰集に38首入集し、三十六歌仙の一人。900年に相模掾となり、914年に下総大掾となった。
その他(古今集)
誰をかも
知る人にせむ
高砂の
松も昔の
友ならなくに
知る人にせむ
高砂の
松も昔の
友ならなくに
35
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紀貫之
平安前期
868年頃~945年
『古今和歌集』の仮名序を著し、905年に醍醐天皇の命で同集を撰進した。930年に土佐守となり、935年頃に帰京する際の紀行文『土佐日記』を女性の立場で平仮名で書き、後世の女性作家に大きな影響を与えた。945年頃に没した。
春(古今集)
人はいさ
心も知らず
ふるさとは
花ぞ昔の
香に匂ひける
心も知らず
ふるさとは
花ぞ昔の
香に匂ひける
36
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清原深養父
平安前期
生没年不詳
天武天皇の末裔で、清少納言の曽祖父。生涯官位に恵まれず、930年に従五位下に叙された。藤原兼輔、紀貫之、凡河内躬恒と交流し、琴の名手でもあった。晩年は岩倉の補陀落寺を建立して隠棲したという。
夏(古今集)
夏の夜は
まだ宵ながら
あけぬるを
雲のいづこに
月やどるらむ
まだ宵ながら
あけぬるを
雲のいづこに
月やどるらむ
37
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文屋朝康
平安前期
生没年不詳
文屋康秀の息子。生涯官位に恵まれなかったが、歌人として名を知られた。892年に駿河掾、902年に大舎人大允となった。『寛平御時后宮歌合』『是貞親王家歌合』に出詠し、勅撰集に3首入集した。
秋(後撰集)
白露に
風の吹きしく
秋の野は
つらぬきとめぬ
玉ぞ散りける
風の吹きしく
秋の野は
つらぬきとめぬ
玉ぞ散りける
38
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右近
平安前期
生没年不詳
醍醐天皇の中宮・穏子に仕えた女房。名は父が右近衛少将だったことに由来する。『大和物語』には様々な男性と恋に落ちる様子が描かれ、恋多き女性だったことがわかる。960年の天徳内裏歌合などに出詠した。
恋(拾遺集)
忘らるる
身をば思はず
誓ひてし
人の命の
惜しくもあるかな
身をば思はず
誓ひてし
人の命の
惜しくもあるかな
39
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参議等
平安前期
880年~951年
本名は源等。嵯峨天皇の曽孫で、臣籍降下して源の姓を名乗った。三河守や丹波守など地方官を歴任し、947年に参議となって公卿入りした。951年に正四位下に叙され、のちに没した。『後撰集』に4首入集するのみ。
恋(後撰集)
浅茅生の
小野の篠原
しのぶれど
あまりてなどか
人の恋しき
小野の篠原
しのぶれど
あまりてなどか
人の恋しき
40
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平兼盛
平安前期
生年不詳~991年
光孝天皇の玄孫で、950年に平朝臣の姓を与えられ臣籍降下した。清盛の伊勢平氏とは別系統。960年の天徳内裏歌合で壬生忠見と競い、979年に駿河守となった。赤染衛門の父とする説があり、991年に没した。三十六歌仙の一人。
恋(拾遺集)
忍ぶれど
色に出でにけり
我が恋は
物や思ふと
人の問ふまで
色に出でにけり
我が恋は
物や思ふと
人の問ふまで
41
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壬生忠見
平安前期
生没年不詳
壬生忠岑の息子。村上天皇に仕えた下級官人で、父譲りの歌の才能で幼少から秀で、内裏に召されて御厨子所で働いた。958年に摂津大目となり、960年の天徳内裏歌合で平兼盛と競った。勅撰集に36首入集。三十六歌仙の一人。
恋(拾遺集)
恋すてふ
我が名はまだき
立ちにけり
人しれずこそ
思ひそめしか
我が名はまだき
立ちにけり
人しれずこそ
思ひそめしか
42
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清原元輔
平安前期
908年~990年
清原深養父の孫で、清少納言の父。951年に梨壺の五人の一人として『後撰和歌集』の撰集にあたった。986年に肥後守となり、990年に肥後で没した。清少納言は父の名を汚したくないと歌を詠まなかったという。
恋(後拾遺集)
契りきな
かたみに袖を
しぼりつつ
末の松山
波こさじとは
かたみに袖を
しぼりつつ
末の松山
波こさじとは
43
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中納言敦忠
平安前期
906年~943年
本名は藤原敦忠。左大臣・藤原時平の三男で、和歌や琵琶の才能に恵まれた。942年に権中納言となったが、943年に38歳で病没。父が菅原道真を失脚させたため、道真の怨霊の祟りという噂が広まった。三十六歌仙の一人。
恋(拾遺集)
逢ひ見ての
のちの心に
くらぶれば
昔は物を
思はざりけり
のちの心に
くらぶれば
昔は物を
思はざりけり
44
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中納言朝忠
平安前期
910年~967年
本名は藤原朝忠。三条右大臣定方の五男で、和歌のほか笙の名手としても知られた。952年に参議、963年に中納言となり、従三位に昇った。孫娘は道長の妻・倫子。967年に没した。三十六歌仙の一人。
恋(拾遺集)
逢ふことの
絶えてしなくは
なかなかに
人をも身をも
恨みざらまし
絶えてしなくは
なかなかに
人をも身をも
恨みざらまし
45
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謙徳公
平安前期
924年~972年
藤原伊尹の諡号。貞信公の孫で、右大臣・師輔の子。父の遺訓に反して贅沢三昧に暮らした。951年に和歌所別当となって梨壺の五人を率い、970年に摂政、971年に太政大臣となり、翌年49歳で没した。藤原義孝の父。
恋(拾遺集)
あはれとも
いふべき人は
思ほえで
身のいたづらに
なりぬべきかな
いふべき人は
思ほえで
身のいたづらに
なりぬべきかな
46
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曾禰好忠
平安中期
生没年不詳
万葉集の古語を取り入れ、百首歌を始めた先駆者。斬新な作風は貴族に理解されず異端視された。985年には招かれずに円融上皇の子の日の御遊に参加して追い出された。のちに高く評価され、『詞花和歌集』に最多入集。
恋(新古今集)
由良のとを
渡る舟人
かぢを絶え
ゆくへも知らぬ
恋の道かな
渡る舟人
かぢを絶え
ゆくへも知らぬ
恋の道かな
47
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恵慶法師
平安中期
生没年不詳
播磨国の国分寺の講師だったといわれる僧。河原院に住んでいた安法法師の友人で、河原院に出入りしていた。962年頃から歌合などで活躍しはじめ、986年には花山院の熊野行幸に従った。
秋(拾遺集)
八重葎
しげれる宿の
さびしきに
人こそ見えね
秋は来にけり
しげれる宿の
さびしきに
人こそ見えね
秋は来にけり
48
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源重之
平安中期
生年不詳~1000年
清和天皇の曽孫。地方官を歴任しながら和歌を作り、冷泉天皇に百首歌『重之百首』を献上した。曾禰好忠とも親交があり、995年頃には陸奥守に任じられた藤原実方に従って陸奥国へ下り、1000年に同地で没した。
恋(詞花集)
風をいたみ
岩うつ波の
おのれのみ
くだけて物を
思ふころかな
岩うつ波の
おのれのみ
くだけて物を
思ふころかな
49
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大中臣能宣朝臣
平安中期
921年~991年
大中臣能宣。中臣鎌足と同じ祖先を持つ中臣氏の出身で、伊勢神宮の祭主を務めた。村上天皇の命で『後撰和歌集』の編纂に関わった梨壺の五人の一人。伊勢大輔の祖父で、991年に没した。三十六歌仙の一人。
恋(詞花集)
御垣守
衛士のたく火の
夜はもえ
昼は消えつつ
物をこそ思へ
衛士のたく火の
夜はもえ
昼は消えつつ
物をこそ思へ
50
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藤原義孝
平安中期
954年~974年
謙徳公(藤原伊尹)の息子で、美しい容姿と才能に恵まれた。仏教への信仰が深く、肉や魚を口にしなかったと伝わる。「長生きしたい」と願う歌を詠みながら、974年に天然痘で21歳で没した。長男は三蹟の一人、藤原行成。
恋(後拾遺集)
君がため
惜しからざりし
いのちさへ
長くもがなと
思ひけるかな
惜しからざりし
いのちさへ
長くもがなと
思ひけるかな
51
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藤原実方朝臣
平安中期
生年不詳~999年
藤原実方。貞信公の曽孫で、名門に生まれ将来を期待された。宮中で藤原行成と口論して烏帽子を投げ捨て、一条天皇の怒りを買い、「歌枕を見てまいれ」と陸奥へ左遷されたと『古事談』に伝わる。999年に陸奥国で没した。
恋(後拾遺集)
かくとだに
えやはいぶきの
さしも草
さしも知らじな
もゆる思ひを
えやはいぶきの
さしも草
さしも知らじな
もゆる思ひを
52
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藤原道信朝臣
平安中期
972年~994年
藤原道信。藤原為光の子で、伯父で摂政の藤原兼家の養子として育った。『大鏡』に和歌の上手と記され、控えめで心優しい性格だったとされる。991年に左近衛中将となったが、994年に天然痘で23歳で夭折した。
恋(後拾遺集)
明けぬれば
暮るるものとは
知りながら
なほうらめしき
朝ぼらけかな
暮るるものとは
知りながら
なほうらめしき
朝ぼらけかな
53
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右大将道綱母
平安中期
936年頃~995年
藤原倫寧の娘で、のちに関白となる藤原兼家の妾となり、955年に道綱を産んだ。974年頃に完成した『蜻蛉日記』には、夫の浮気に悩む心情とともに、逆境を生き抜いた誇り高い気質が表れる。本朝三美人の一人。995年没。
恋(拾遺集)
嘆きつつ
ひとり寝る夜の
明くる間は
いかに久しき
ものとかは知る
ひとり寝る夜の
明くる間は
いかに久しき
ものとかは知る
54
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儀同三司母
平安中期
生年不詳~996年
本名は高階貴子。卓越した漢詩の才をもつ高貴な女性で、藤原道隆との間に伊周と、一条天皇の后となる定子をもうけた。995年に夫が亡くなり、996年に長徳の変で伊周・隆家が左遷されるなか、同年に没した。
恋(千載集)
忘れじの
ゆく末までは
かたければ
今日を限りの
命ともがな
ゆく末までは
かたければ
今日を限りの
命ともがな
55
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大納言公任
平安中期
966年~1041年
本名は藤原公任。漢詩・和歌・管弦に秀で、「三舟の才」と称された博学の文化人。姉の遵子が円融天皇の皇后となった際、女御の詮子に軽口を叩いて恨みを買う軽率な面もあった。晩年は官位への不満から政界を退き、隠棲した。
その他(千載集)
滝の音は
たえて久しく
なりぬれど
名こそ流れて
なほ聞こえけれ
たえて久しく
なりぬれど
名こそ流れて
なほ聞こえけれ
56
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和泉式部
平安中期
976年頃~没年不詳
橘道貞との間に小式部内侍をもうけた後、為尊親王・敦道親王と関係を持った。敦道親王との恋は『和泉式部日記』に描かれる。1009年頃に中宮彰子に仕え、のち藤原保昌と再婚。紫式部は文才と色艶を評価した。
恋(後拾遺集)
あらざらむ
この世のほかの
思ひ出に
いまひとたびの
逢ふこともがな
この世のほかの
思ひ出に
いまひとたびの
逢ふこともがな
57
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紫式部
平安中期
970年頃~1014年頃
藤原為時の娘で、幼い頃から賢く、漢詩の覚えは弟より早かったという。998年頃に藤原宣孝と結婚し、娘の賢子(大弐三位)を産んだ。夫の死後に『源氏物語』を書き始め、道長に抜擢されて1005年頃に中宮彰子に仕えた。
その他(新古今集)
めぐり逢ひて
見しやそれとも
わかぬ間に
雲隠れにし
夜半の月かな
見しやそれとも
わかぬ間に
雲隠れにし
夜半の月かな
58
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大弐三位
平安中期
999年頃~1082年頃
本名は賢子。紫式部の娘で、母の後を継いで中宮彰子に仕えた。後冷泉天皇の乳母となり、1054年に従三位に叙された。名は、再婚した高階成章の官職・大宰大弐と自身の位階・従三位に由来する。1082年頃に没した。
恋(後拾遺集)
ありま山
猪名の笹原
風吹けば
いでそよ人を
忘れやはする
猪名の笹原
風吹けば
いでそよ人を
忘れやはする
59
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赤染衛門
平安中期
956年頃~1041年頃
名は父の官職・右衛門尉に由来する。976年頃に大江匡衡と結婚し、1001年に夫とともに尾張国へ赴いた。藤原道長の正妻・倫子と、その娘の中宮彰子に仕え、紫式部や和泉式部とも交流した。『栄花物語』正編の作者としても知られる。
恋(後拾遺集)
やすらはで
寝なましものを
小夜更けて
かたぶくまでの
月を見しかな
寝なましものを
小夜更けて
かたぶくまでの
月を見しかな
60
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小式部内侍
平安中期
生年不詳~1025年
母・和泉式部の名に由来する女房名で呼ばれ、1009年頃から母とともに中宮彰子に仕えた。1016年に藤原教通の子(静円)を産み、1025年に20代で出産後に亡くなった。『和泉式部集』には夭折した娘を悼む哀傷歌が収められている。
その他(金葉集)
大江山
いく野の道の
遠ければ
まだふみもみず
天の橋立
いく野の道の
遠ければ
まだふみもみず
天の橋立
61
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伊勢大輔
平安中期
989年頃~没年不詳
大中臣能宣の孫で、名は父が神祇大副を務めたことに由来する。1008年頃から中宮彰子に仕え、和泉式部や紫式部とも交流した。歌合に出詠を重ね、晩年は白河天皇の養育係を務めた。1060年頃まで生存が確認される。
春(詞花集)
いにしへの
奈良の都の
八重桜
けふ九重に
匂ひぬるかな
奈良の都の
八重桜
けふ九重に
匂ひぬるかな
62
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清少納言
平安中期
966年頃~1025年頃
清原深養父の曽孫で、清原元輔の娘。981年頃に橘則光と結婚し、993年に中宮定子に仕えた。1000年に定子が亡くなると宮仕えを退いた。日本最古の随筆『枕草子』の作者で、1025年頃に没した。
その他(後拾遺集)
夜をこめて
鳥のそらねは
はかるとも
よに逢坂の
関は許さじ
鳥のそらねは
はかるとも
よに逢坂の
関は許さじ
63
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左京大夫道雅
平安中期
992年~1054年
本名は藤原道雅。藤原伊周の長男で、長徳の変により一族は没落した。1016年に従三位となるが政治的影響力はなく、自暴自棄になって素行が悪化し、「荒三位」「悪三位」と呼ばれた。1054年に出家して没した。
恋(後拾遺集)
いまはただ
思ひ絶えなむ
とばかりを
人づてならで
言ふよしもがな
思ひ絶えなむ
とばかりを
人づてならで
言ふよしもがな
64
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中納言定頼
平安中期
995年~1045年
本名は藤原定頼。藤原公任の息子で、父譲りで和歌や管弦に通じ、能書家でもあった。1029年に権中納言となり、1044年に病で出家して翌年没した。小式部内侍に歌でやりこめられた逸話が残り、軽率な一面もあったようだ。
冬(千載集)
朝ぼらけ
宇治の川霧
絶え絶えに
あらはれわたる
瀬々の網代木
宇治の川霧
絶え絶えに
あらはれわたる
瀬々の網代木
65
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相模
平安中期
998年頃~1061年以降
名は相模守の大江公資と結婚したことに由来するが、1025年頃に別れた。脩子内親王に仕えて奔放な恋愛を重ね、歌人として高く評価され、『後拾遺和歌集』に40首入集。源頼光の養女。
恋(後拾遺集)
恨みわび
ほさぬ袖だに
あるものを
恋にくちなむ
名こそをしけれ
ほさぬ袖だに
あるものを
恋にくちなむ
名こそをしけれ
66
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大僧正行尊
平安中期
1055年~1135年
三条院の曽孫。10歳で父を亡くし、12歳で園城寺で出家して天台宗の僧となった。山伏修行を積み、1116年に園城寺長吏、1123年に天台座主となったがまもなく辞任。71歳で大僧正となり、1135年に没した。
その他(金葉集)
もろともに
あはれと思へ
山桜
花よりほかに
知る人もなし
あはれと思へ
山桜
花よりほかに
知る人もなし
67
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周防内侍
平安中期
1037年頃~1111年頃
本名は平仲子。女房名は父が周防守を務めたことに由来する。後冷泉・後三条・白河・堀河の四代に仕えた宮廷歌人で、『後拾遺和歌集』以降の勅撰和歌集に35首入集。1108年頃に病で出家し、1111年頃に没した。
その他(千載集)
春の夜の
夢ばかりなる
手枕に
かひなく立たむ
名こそをしけれ
夢ばかりなる
手枕に
かひなく立たむ
名こそをしけれ
68
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三条院
平安中期
976年~1017年
冷泉天皇の第二皇子で、1011年に36歳で即位したが、在位は5年と短かった。在位中に内裏が二度も火災に遭い、眼病を患って苦しんだ。1016年に後一条天皇に譲位し、1017年に出家して崩御した。
その他(後拾遺集)
心にも
あらで憂き世に
ながらへば
恋しかるべき
夜半の月かな
あらで憂き世に
ながらへば
恋しかるべき
夜半の月かな
69
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能因法師
平安中期
988年~1050年または1058年
本名は橘永愷。文章生だったが1013年に出家して能因と名乗った。歌枕に強い関心を持ち、全国を旅して歌を詠んだ数寄者。日焼けして旅先で詠んだと見せかけた逸話や雨乞いの伝説がある。1050年または1058年に没した。
秋(後拾遺集)
嵐吹く
三室の山の
紅葉葉は
竜田の川の
錦なりけり
三室の山の
紅葉葉は
竜田の川の
錦なりけり
70
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良暹法師
平安中期
生没年不詳
比叡山延暦寺の僧となり、祇園社の別当を務めた後、大原の里に人知れず暮らしたといわれる。晩年は雲林院に住んだともいう。1038年に権大納言師房家歌合などに出詠し、康平年間(1058〜1065年)頃に没したとする説がある。
秋(後拾遺集)
さびしさに
宿を立ち出でて
ながむれば
いづくも同じ
秋の夕暮
宿を立ち出でて
ながむれば
いづくも同じ
秋の夕暮
71
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大納言経信
平安中期
1016年~1097年
本名は源経信。敦実親王の曽孫で、漢詩・和歌・管弦に優れた多才な人物。大堰川の舟遊びで多才ぶりを示し、公任と並び「三舟の才」と称された。1091年に大納言となり、1094年に大宰権帥となって赴任、1097年に大宰府で没した。
秋(金葉集)
夕されば
門田の稲葉
おとづれて
蘆のまろやに
秋風ぞ吹く
門田の稲葉
おとづれて
蘆のまろやに
秋風ぞ吹く
72
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祐子内親王家紀伊
平安後期
生没年不詳
後朱雀天皇の第三皇女・祐子内親王の女房で、長く歌人として活躍した。紀伊守・藤原重経の妹あるいは妻とする文献もあり、その官職が名の由来と考えられる。1102年の堀河院艶書合で歌を詠み、1105年頃に『堀河百首』に参加した。
恋(金葉集)
音に聞く
高師の浜の
あだ波は
かけじや袖の
ぬれもこそすれ
高師の浜の
あだ波は
かけじや袖の
ぬれもこそすれ
73
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権中納言匡房
平安後期
1041年~1111年
本名は大江匡房。赤染衛門の曽孫で、学者を輩出する家柄に生まれ、16歳で文章得業生となった。有職故実に詳しく、後三条・白河・堀河の三天皇の教育係を務めた。1094年に権中納言となり、1111年に没した。
春(後拾遺集)
高砂の
尾の上の桜
咲きにけり
外山の霞
立たずもあらなむ
尾の上の桜
咲きにけり
外山の霞
立たずもあらなむ
74
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源俊頼朝臣
平安後期
1055年~1129年
源経信の子。革新的な歌風で知られ、伝統的な歌風の藤原基俊と並ぶ院政期歌壇の双璧。微官ながら白河院の命で『金葉和歌集』の撰者を務めた。多くの歌会で作者や判者を務め、歌壇をリードして、1129年に没した。
恋(千載集)
憂かりける
人を初瀬の
山おろしよ
はげしかれとは
祈らぬものを
人を初瀬の
山おろしよ
はげしかれとは
祈らぬものを
75
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藤原基俊
平安後期
1060年~1142年
藤原道長の曽孫だが、官位は従五位上と微官に終わった。伝統的な歌風を重んじ、革新的な源俊頼と対立しつつ院政期歌壇の双璧とされた。晩年に藤原俊成を弟子に迎え、1138年に出家し、1142年に没した。
その他(千載集)
契りおきし
させもが露を
いのちにて
あはれ今年の
秋もいぬめり
させもが露を
いのちにて
あはれ今年の
秋もいぬめり
76
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法性寺入道
前関白太政大臣
前関白太政大臣
平安後期
1097年~1164年
本名は藤原忠通。藤原忠実の長男で、1121年に関白となった。異母弟の頼長との確執が保元の乱につながり、1156年の乱では後白河天皇方について勝利した。書に優れ、法性寺流の祖としても知られる。1164年に没した。
その他(詞花集)
わたの原
こぎいでてみれば
久方の
雲居にまがふ
沖つ白波
こぎいでてみれば
久方の
雲居にまがふ
沖つ白波
77
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崇徳院
平安後期
1119年~1164年
鳥羽天皇の第一皇子で、1123年に5歳で即位したが、鳥羽上皇に疎まれ、1141年に近衛天皇へ譲位した。1156年に保元の乱に敗れて讃岐国へ流され、都に戻れないまま1164年に同地で崩御した。
恋(詞花集)
瀬をはやみ
岩にせかるる
滝川の
われても末に
あはむとぞ思ふ
岩にせかるる
滝川の
われても末に
あはむとぞ思ふ
78
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源兼昌
平安後期
生没年不詳
宇多天皇の末裔だが、官位は従五位下にとどまり微官に終わった。歌人としてその才能を発揮し、1116年に鳥羽天皇の勅命で編纂された『永久百首』の作者となった。1100年の国信卿家歌合などにも出詠した。
冬(金葉集)
淡路島
かよふ千鳥の
鳴く声に
幾夜寝覚めぬ
須磨の関守
かよふ千鳥の
鳴く声に
幾夜寝覚めぬ
須磨の関守
79
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左京大夫顕輔
平安後期
1090年~1155年
本名は藤原顕輔。六条藤家の祖・藤原顕季の子で、歌道の名門に生まれた。崇徳院の命で『詞花和歌集』を撰集し、1151年に奏覧した。手伝った子の清輔の歌は一首も採らず、親子の確執が伝わる。1155年に没した。
秋(新古今集)
秋風に
たなびく雲の
たえ間より
もれいづる月の
影のさやけさ
たなびく雲の
たえ間より
もれいづる月の
影のさやけさ
80
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待賢門院堀川
平安後期
生没年不詳
崇徳院の生母・待賢門院璋子に仕え、崇徳院の時代に歌人として活躍した。1142年に待賢門院の出家に従って出家し、仁和寺で晩年を過ごした。1145年に待賢門院が没し、1150年には『久安百首』に百首を詠進した。
恋(千載集)
長からむ
心もしらず
黒髪の
みだれてけさは
物をこそ思へ
心もしらず
黒髪の
みだれてけさは
物をこそ思へ
81
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後徳大寺左大臣
平安後期
1139年~1192年
本名は藤原実定。藤原定家の従兄弟で、和歌に優れ管弦の名手でもあった。祖父の実能が「徳大寺左大臣」と呼ばれたことから、「後徳大寺左大臣」と称された。1189年に左大臣となり、1191年に出家し、翌年没した。
夏(千載集)
ほととぎす
鳴きつる方を
ながむれば
ただ有明の
月ぞ残れる
鳴きつる方を
ながむれば
ただ有明の
月ぞ残れる
82
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道因法師
平安後期
1090年~1182年頃
俗名は藤原敦頼。右馬助を務め、従五位上に至った。優れた歌を詠むことを願い、毎月京都から住吉大社へ徒歩で参拝を続けた。1172年に出家した後も、高齢になって歌会に参加し、1182年頃に没した。
恋(千載集)
思ひわび
さても命は
あるものを
憂きにたへぬは
涙なりけり
さても命は
あるものを
憂きにたへぬは
涙なりけり
83
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皇太后宮大夫俊成
平安後期
1114年~1204年
本名は藤原俊成。藤原定家の父。数多くの歌合で判者を務め、「幽玄」「艶」といった美意識を重んじた。1188年に後白河院の命で『千載和歌集』を撰進した。1203年に九十歳の賀宴を賜り、1204年に没した。
その他(千載集)
世の中よ
道こそなけれ
思ひ入る
山の奥にも
鹿ぞ鳴くなる
道こそなけれ
思ひ入る
山の奥にも
鹿ぞ鳴くなる
84
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藤原清輔朝臣
平安後期
1104年~1177年
藤原顕輔の子。父との確執から、『詞花和歌集』に歌が一首も採られなかった。1155年に六条藤家を継ぎ、二条天皇の命で『続詞花和歌集』を撰ぶが、天皇の崩御で勅撰集とならなかった。1177年に没した。
その他(新古今集)
長らへば
またこのごろや
しのばれむ
憂しと見し世ぞ
今は恋しき
またこのごろや
しのばれむ
憂しと見し世ぞ
今は恋しき
85
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俊恵法師
平安後期
1113年~1191年頃
源俊頼の子で、17歳で父と死別して東大寺の僧となった。1150年頃、白川の自坊を歌林苑と名づけて多くの歌人を招いて歌会を催した。弟子に『方丈記』の作者・鴨長明がいる。1191年頃に没した。
恋(千載集)
夜もすがら
物思ふころは
明けやらで
閨のひまさへ
つれなかりけり
物思ふころは
明けやらで
閨のひまさへ
つれなかりけり
86
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西行法師
平安後期
1118年~1190年
俗名は佐藤義清。鳥羽院の北面の武士で左兵衛尉だったが、1140年に出家した。待賢門院への恋を断つためとする説がある。漂泊の歌人として東北や四国など各地を旅し、旅先で多くの歌を詠んだ。1190年に弘川寺で没した。
恋(千載集)
嘆けとて
月やは物を
思はする
かこち顔なる
わが涙かな
月やは物を
思はする
かこち顔なる
わが涙かな
87
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寂蓮法師
鎌倉
1139年頃~1202年
藤原俊成の養子だったが、実子の定家に後継ぎを譲るため出家したといわれる。高野山で修行した後、諸国を行脚して嵯峨に移り住んだ。1201年に定家らとともに『新古今和歌集』の撰者に選ばれたが、翌1202年に没した。
秋(新古今集)
村雨の
露もまだひぬ
まきの葉に
霧たちのぼる
秋の夕暮
露もまだひぬ
まきの葉に
霧たちのぼる
秋の夕暮
88
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皇嘉門院別当
鎌倉
生没年不詳
崇徳院の中宮・皇嘉門院(藤原聖子)に別当として仕えた。1175年の右大臣兼実家歌合や、1178年の右大臣家百首に出詠した。皇嘉門院が亡くなった1182年の頃には、すでに出家していた。
恋(千載集)
難波江の
葦のかりねの
ひとよゆゑ
みをつくしてや
恋ひわたるべき
葦のかりねの
ひとよゆゑ
みをつくしてや
恋ひわたるべき
89
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式子内親王
鎌倉
1149年~1201年
後白河上皇の第三皇女。1159年に賀茂斎院となり、生涯恋愛の自由を奪われた。退下後は家族を次々に亡くし、呪詛の疑惑も持たれるなど波乱の人生を送った。『新古今和歌集』に女性歌人最多の49首が入った。1201年に没した。
恋(新古今集)
玉の緒よ
絶えなば絶えね
ながらへば
忍ぶることの
弱りもぞする
絶えなば絶えね
ながらへば
忍ぶることの
弱りもぞする
90
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殷富門院大輔
鎌倉
1130年頃~1200年頃
藤原信成の娘で、後白河天皇の皇女・殷富門院に仕えた。多くの歌を詠んだことから「千首大輔」と呼ばれた。1182年に『寿永百首』に参加し、1192年に殷富門院の出家に従って出家した。1200年頃に没した。
恋(千載集)
見せばやな
雄島のあまの
袖だにも
ぬれにぞぬれし
色はかはらず
雄島のあまの
袖だにも
ぬれにぞぬれし
色はかはらず
91
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後京極摂政前太政大臣
鎌倉
1169年~1206年
本名は九条良経。藤原忠通の孫で、九条兼実の次男。兄が夭逝したため九条家を継いだ。1202年に土御門天皇の摂政、1204年に太政大臣となったが、1206年に38歳で父より早く没した。暗殺されたとする説もある。
秋(新古今集)
きりぎりす
鳴くや霜夜の
さむしろに
衣かたしき
ひとりかも寝む
鳴くや霜夜の
さむしろに
衣かたしき
ひとりかも寝む
92
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二条院讃岐
鎌倉
1141年頃~1217年頃
源頼政の娘で、二条院に仕えた後、後鳥羽天皇の中宮・宜秋門院に仕えた。式子内親王と並び称された和歌の名手。1180年に以仁王の挙兵に関わった父と兄を失い、のちに出家した。1217年頃に没した。
恋(千載集)
わが袖は
潮干に見えぬ
沖の石の
人こそ知らね
かわくまもなし
潮干に見えぬ
沖の石の
人こそ知らね
かわくまもなし
93
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鎌倉右大臣
鎌倉
1192年~1219年
本名は源実朝。源頼朝と北条政子の子で、1203年に12歳で鎌倉幕府の第三代征夷大将軍となった。和歌を愛し、平和な世を願った。1213年頃に『金槐和歌集』がまとまり、1218年に右大臣となった。1219年に甥の公暁に暗殺された。
旅(新勅撰集)
世の中は
つねにもがもな
渚こぐ
あまの小舟の
綱手かなしも
つねにもがもな
渚こぐ
あまの小舟の
綱手かなしも
94
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参議雅経
鎌倉
1170年~1221年
本名は藤原雅経。飛鳥井流蹴鞠を興した蹴鞠の名人。藤原俊成に和歌を学び、1201年に和歌所寄人となり、『新古今和歌集』の撰者の一人に選ばれた。1220年に参議となり、1221年に没した。
秋(新古今集)
み吉野の
山の秋風
さ夜ふけて
ふるさと寒く
衣うつなり
山の秋風
さ夜ふけて
ふるさと寒く
衣うつなり
95
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前大僧正慈円
鎌倉
1155年~1225年
藤原忠通の六男で、1167年に青蓮院に入って出家した。1192年に天台座主となり、生涯で4度就任した。1220年頃に史論書『愚管抄』を著し、後鳥羽院の挙兵を諫めようとしたと考えられている。1225年に没した。
その他(千載集)
おほけなく
憂き世の民に
おほふかな
わがたつ杣に
墨染の袖
憂き世の民に
おほふかな
わがたつ杣に
墨染の袖
96
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入道前太政大臣
鎌倉
1171年~1244年
本名は西園寺公経。源頼朝の姪を妻に迎え、鎌倉幕府と深く結びついた。承久の乱では後鳥羽上皇の計画を幕府に密かに報告し、1222年に太政大臣となった。北山に西園寺を建てて栄華を極め、1244年に没した。
その他(新勅撰集)
花さそふ
嵐の庭の
雪ならで
ふりゆくものは
わが身なりけり
嵐の庭の
雪ならで
ふりゆくものは
わが身なりけり
97
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権中納言定家
鎌倉
1162年~1241年
本名は藤原定家。藤原俊成の子で、『百人一首』を編纂した歌人。1201年に『新古今和歌集』の撰者に選ばれ、1235年に『新勅撰和歌集』を完成させた。『源氏物語』などを書き写して後世に伝えた。1241年に没した。
恋(新勅撰集)
来ぬ人を
松帆の浦の
夕なぎに
焼くやもしほの
身もこがれつつ
松帆の浦の
夕なぎに
焼くやもしほの
身もこがれつつ
98
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従二位家隆
鎌倉
1158年~1237年
本名は藤原家隆。藤原俊成に和歌を学び、藤原定家と並ぶ歌壇の代表だった。1201年に『新古今和歌集』の撰者に選ばれた。承久の乱で後鳥羽院が隠岐に流された後も、書状をやり取りして院を支え続けた。1237年に没した。
夏(新勅撰集)
風そよぐ
ならの小川の
夕暮は
みそぎぞ夏の
しるしなりける
ならの小川の
夕暮は
みそぎぞ夏の
しるしなりける
99
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後鳥羽院
鎌倉
1180年~1239年
高倉天皇の皇子で、三種の神器のないまま即位した。引け目を克服するように、和歌など多くの分野で万能になった。1201年に『新古今和歌集』の編纂を命じた。1221年に承久の乱に敗れて隠岐へ流され、同地で崩御した。
その他(続後撰集)
人もをし
人もうらめし
あぢきなく
世を思ふゆゑに
物思ふ身は
人もうらめし
あぢきなく
世を思ふゆゑに
物思ふ身は
100
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順徳院
鎌倉
1197年~1242年
後鳥羽院の第三皇子で、1210年に14歳で即位した。宮中の行事やしきたりを『禁秘抄』にまとめ、朝廷の存在意義を示そうとした。1221年に父とともに承久の乱に敗れて佐渡へ流され、1242年に同地で崩御した。
その他(続後撰集)
ももしきや
ふるき軒ばの
しのぶにも
なほあまりある
昔なりけり
ふるき軒ばの
しのぶにも
なほあまりある
昔なりけり